走って、走って、ときどき海遊び

ラスコです。人生3分の2を終え残りは、ジョギングで走って、自転車で走って、ときどき釣りとウインドサーフィン.....

デカルトが下敷きなのかな

昨日の日経新聞朝刊の一面コラムで、
演劇演出家の蜷川幸雄氏の言葉が紹介されていた。
「千人の観客が入れば千の動機があり、千の人生があるのです」

コラムの内容より蜷川氏の言葉そのものに反応した。
学生時代に読んだ「一人は誰でもなく、また十万人」
というラテンアメリカの小説のことを思い出した。

この題名からいったい何が書かれている本と想像できるだろう。
そもそも日本語としておかしいだろう。
まったく意味が分からない、
いったい何が書いてあるだと逆に興味をそそられて買ってしまった。

物語は、ある平凡なサラリーリマン氏が朝起きて鏡を覗いていた。
白髪があるな。といつもより大目に鏡の前に立っていたら、
奥さんが一言いう。
「なにあなた、右の耳と左の耳の大きさが違うのが気になるの?」

「なんだって、左右の耳の大きさが違うだって」
サラリーマン氏は今まで自分でも気がついていなかった
耳の大きさの違いに驚く。

鏡を見直してみると確かに違う。
何十年も鏡を見てきたのに自分ではまったく気がつかなかったことに
ショックを受けた。

そんなショックのまま会社に向かう道すがら、
誰かが自分を見つめているのに気がついた。
人のことをジロジロ見やがって何だって言うんだ。
しばらくこちらからも見つめているうちに気がついた。
それはショーウインドウに映った自分の姿だったことに。

なんだオレはいつもあんな格好で歩いてあんな顔しているのか。
見たこともない自分を発見した。
それからこのサラリーマン氏の苦悩が始まった。

自分の知っている自分とは別に、他人から見た自分がいるのではないか。
自分という人間は一人しかいないのに
自分と接している他人が10人いたら10通りの自分がいて、
100人いたら100通りの自分がいて・・・・
10万人いたら10万通りの自分がいることになってしまう。
(この辺で題名に納得した)

本当の自分はいったいどこにいるんだ。
このサラリーマン氏はこれでノイローゼになってしまう。

何だか哲学的だなと当時は思ったものだ。
実際これは哲学なんだと知ったのは、
後になって経営学の中で哲学を勉強する機会があってからだ。

余り詳しくはないけど、少しかじった哲学の本なんかによると、
近代哲学の父と言われたフランスのデカルトが似たようなことを言ってる。

ここに一つの石があったとする。
石じゃなくてバラの花でもいいんだろうけど。
その石は見る人によって違った形に見えている。
石そのものは一つなのに人それぞれに見ている複数の石が存在してしまう。
どれが本当の正しい石なのか。

石の話だとどうもこじつけがましくて、
石は石でしかないだろうと反論されてしまうけど、
見る対象が人の性格や思想と言った形を伴わない物だと
人によって見方が違って来るというのも納得いくだろう。

とことん突き詰めて考えていくと何が本当の姿なのか
分からなくなってしまう。
はて、困った。

そこでデカルトは思った。
どれが本当の姿なのかは分からない。
しかしそのことを必死に考えている自分がいることは確かだ。
そして有名な「我思う、故に我あり」という言葉がうまれた

似たようにと言うかデカルトの問題意識を下敷きにして
このサラリーマン氏の苦悩の物語が書かれたんだろう。
つまり蜷川氏の言っていることはデカルトの考え方を
下敷きにしていると言うことか。

だから、何。それがどうしたの。
と言われても別にそれだけだけど、としか言えない。

その辺はボクの知識が断片的で散らばっているからまとまりが無く、
気がついたところをつまみ食いしただけになっているからだ。

なんだか思いついたことを散らかしただけで結末が見えてこなくて困った。
この辺は考え始めると答えが見えなくて収集つかなくなってしまう。
哲学って勉強すればするほど、思惟(物事の根本を深く考えるこ)が進むほど
答えが見えてこなくなってしまう。
そう、サラリーマン氏の苦悩と同じ事だ。

算数のような確定した答えを得ようとすることがそもそも見当違いなのかな。

ところで、デカルトが近代哲学の父なら母は誰なんだろう。
一生懸命勉強していた頃には気がつかなかったな。
こんな事を気にし始めてしまうとボクの苦悩が始まってしまいそうだ。